2006年6月の入社以来、異業種への挑戦と自身の技能向上に努めつつ、様々な普通の会社では経験できそうもなく、今後もあってほしくもない苦難ともまた戦い続けた5年3ヶ月でしたが、とうとう去る日が来そうです。
あいにく、次の仕事が決まったわけでもありませんし、融資の内定を得ているわけでもありません。
備えも十分でなく退散かというところになりますが、それにしても、自社の社長の気の短さには何とも言えないものがあります。
「9月は目標を何としても達成しろ、出来ないと分かった時は辞表を出せ、1ヶ月分は出すから仕事を探せ」、だそうです。
クライアントに対して責任がよく持てるなと、わが身よりも先にクライアントの今後が不安になってしまってますが、私としても3月で官公庁からの受託案件が終了し、入社以来長く担当してきた作業も5月で終了と、自社での役割は終えたという認識でいます。
まあ、昼のミーティングで9月下旬で辞表になるでしょうという話をして、夕刻にこのざまですから、会社都合にしてくれという思いしか出てきません。
辞表=自己都合退社ですので。
ブラック企業は、とにもかくにも辞表を出させます。
ボイスレコーダーと弁護士の出番もそう遠くないかもしれません。
今年1月、私の第二の起業計画が始まりました。
個別指導塾を立ち上げる際の要となる個別パーティションブースを自習室用途に転用、有料の固定座席制の自習室の運営計画を立案したのです。
まずはウェブサイトを立ち上げて予約や問い合わせを受け付けます。
現在までに寄せられた問い合わせや予約は計5件。
予約10件を一つの目途としているものの、ここ2ヶ月での反響の多さに驚きつつ、物件情報も逐次チェックしています。
たまたまクライアントの物件に有力候補が出てきたため、時間のある時に見学に行こうと考えています。
なお、稼ぎは独立可能水準に若干及ばず、社会貢献色が強いものの、兼業でやる分にはすさまじい月間黒字をもたらしてくれます。
お目見えするまではもうしばらく時間がかかりそうです。
拝啓
今日で母がこの世を去ってちょうど20年になりました。
いかがお過ごしでしょうか。
不自由なく、永遠の38歳を謳歌されておられますでしょうか。
この不肖の息子も年が32になり、いまだ独身、単に税金でご飯を食べるのに心苦しく、財政破たんでもしようものなら【税金をもらいながらおれたちの生活をぐちゃぐちゃにして、この非国民!】と言われたくないので、いつか自分の学園・個別塾を起業しようと、民間で頑張ってますが、親父がワーキングプアの走りみたいなことをして、注意力と忍耐力がないものだから、19年ほど下流社会に身を置いて、苦労している姿をお見せするのは実に心苦しく、申し訳なく思います。
今でも思い出します。
1991年8月6日、三重県伊勢市は伊勢神宮まで、ボーイスカウトの神社ジャンボリー大会に参加するために、今は鹿児島中央駅と名を改めてますが、西鹿児島駅に向かう前、市立病院に入院中のところを見舞いに行って、無事帰ってくることを約束したその翌々日の早朝、亡くなったと聞いたのが、現地の午前9時過ぎで、ちょうど入場行進をする前の集合場所に向かおうとするところでした。
ブルトレの「なは」に乗って、遠路遠くへ来たものと思ってたら、伊勢神宮に参拝する前に鹿児島に帰ることになるなんてと、ちょっとがっかりでしたが、たまたま鹿児島に戻る増留隊長(今はそちらにおられます)に引率されて、近鉄特急や大阪環状線、新幹線に乗って博多駅まで戻ってきて、一緒に伊集院まで乗った「有明」で西駅に着いたのは21時だったのを思い出します。
その時迎えに来た伯父さんに連れられて、家に着いたらいつもと全く違ってて、親戚やいとこが家中にいるのに驚きましたが、それ以上に、もう何も言葉を発することもできない母の死に顔を見て、涙が止まりませんでした。
しかも、前年の夏休みの、いつだったか、まさに祭壇があって、母の葬式の夢を見て、泣きながら飛び起きて母に「葬式の夢を見た~(号泣)。お母さん死なないよね~(涙)」と二度ほど聞いて、「お母さんは死なないから、大丈夫よ」となだめてくれたものですが、残念ながら完全に正夢でした。
祭壇の形や配置、遺影の姿、一緒だったのです。
はっきり言ってマザコンだと言える自分にとって、家族の中で一番厳しかったのも母、味方だったのも母、面白かったのも母と、今でも感謝しています。
でも、逝くのはやっぱり早過ぎた。
バブル崩壊後の景気低迷、父の不注意で転校に追いやられる原因となった車上荒らしによる100万円紛失、転校先でのいじめと学級崩壊環境における学力低下、父の低収入に起因する県外二流大学進学断念、同じく除籍騒動、また同じく就職活動が出来ない多忙なアルバイト生活、そしてやらかした父の自己破産に脳卒中、安定しない職場、ブラック企業と言われる劣悪な勤務待遇・・・。
これが、平成を生きる我ら家族のたどってきた道、しかし、母がたどってきた道を考えると、母に生きていてほしかった、なんて言えない。
婚約者に先立たれ、死因もスキルス胃ガン。
僕が尊敬する大司会者の逸見さんも同じ病でそちらにいらっしゃると思うけれど、どうしてなんだろう。
生きるって、難しいね。
直接、教えてもらったわけではないけどね。
それでも、無責任なことは誰もしてないこと、今も母の教えが生きている証だと思うね。
妹もできちゃった婚なんかもせず、父に経済的負担をかけまいと看護師をして、めいが2人いる叔父さんになっちゃったよ。
それだけのことをしてるのだから、当然だと思う。
自分は遠距離恋愛に7年半費やしたけど、全ては稼ぎで台無しになった。
いかに稼げるようになるか、そこが大事になると考えているけれど、結局は生活力がものを言うことは、親父をずっと見ていたからよく骨身にしみついてるよ。
こんな苦しい生活にならないために、今を思い切り生きる、何事も挑戦してみる、そんなところ。
まあ、この20年で打たれ強い人間には確実になれたと思う。
また、人の悲しみを自分のことのように受け止めることも、実体験から自然とそうできるようになった。
共感できないと人じゃないね。
いい出会いがあり、長い付き合いの親友。
心に残る名言を残したり、自分を救ってくれたりして、警察官や自衛官をやってる遠くで頑張ってる旧友もいる。
これからの20年はどうなるか、全然分からない。
貧しい人たちが若年層を中心に増える予想、晩婚化が進むことまでは予想して、今がそうなってる。
でも、この先は、なぜかは分からないけれど、悪い予感しか浮かばない。
それでも、前もって対応すれば、何とかなるはず。
そう信じて、もっと勉強するよ。
今度のお盆も墓参りに行きます。
たまには姿を、幻影でいいから、見たいですね。
くれぐれも枕元に化けて出て来ないでね。
「オバタリアン参上~」とか言いながら。
敬具
西策 大